そして。

 また、黒檀の時計が刻を報せる。
 辺りは、凍りついたように動きを止めた。
 
 止まってしまった人々に合わせるように、アヤとミキも動きを止める。
 ミキは、アヤの肩口に顔を伏せ、肩を震わせていた。
 …笑ってる…?
 アヤは、その様子に険しい表情を見せた。胸に、不穏な感情のカタマリが生まれる。
 
 「みきたん…、…」

 アタシにはアンタが解らないよ、と口にしたかった。
 けれど、ミキは顔を上げずにただ肩を震わせているだけであった。
 たぶん、「何」と返されても、アヤには言葉を続けられなかっただろう、という確信があった。

 そして、音は止む。
 だが、硬直から醒めた群衆の様子は、以前のものと少し違っていた。
 陽気さが、戻っていない。

 その原因は、人々の中心にあった。
 今までは気がつくものもいなかったが、“それ”は今、異常な存在感をもって人々の中に立っている。
 今まで、誰もその存在を気にしていなかった。
 その人物は、参加者の中に忽然と姿を現したように感じた。
 その出で立ちは、ミキの守っていたギリギリの品性さえも飛び越えた、死の象徴そのもののようだった。
 人々は、その姿に驚愕し、反感を覚え、恐怖と嫌悪感を抱いた。
 
 その人物は、上から下まで経帷子をまとっていた。
 仮面は、死後硬直した人間の顔に似せて作ってあり、まるで本当に死んだ人間がそこに佇んでいるようだった。
 それだけなら、まだ酔狂の域を出ていない。
 しかし…。

 「みきたん、アイツ…!」

 息を飲むように、アヤがミキに耳打ちする。
 それに頷くミキの表情は、押し殺した怒りで少し険しくなっていた。

 会場に溢れている人々は、その異様さに、すっくと立つその人物を遠巻きに見ていた。
 ぽっかりと、空間が出来る。
 その中心に立つのは、白い人影。
 その横顔が、ぐりん、とミキを見る。
 その仮面は、正面から見ると、紅が目を奪う。まるでそれは、赤き死をそこに貼り付けたような仮面だった。
 誰かが、悲鳴を上げる。
 ぎりり、とミキの歯が鳴るのを、アヤは聞いた。
 ぶるぶると怒りに躰を震わせるミキを、アヤは初めて見ていた。

 「…何処の誰だ」

 押し殺した声が、こぼれる。

 「とっ捕まえて、その仮面を引っぺがしてやる!!」

 ミキは叫んで、乱暴に片手を振り上げた。
 途端に、周囲の音が鎮まる。
 客たちはさっと道を空け、ミキを通す。
 後に控えた騎士たちは、呆然とし、恐怖でその闖入者を捕らえようと動き出すものはいなかった。

 長身の仮装者は、ばさりと身を翻して、どんどん奥へと進んでいく。
 
 ミキはもう、ほとんど全速力で走っている。
 それでも仮装の闖入者は、追いつかれることなくすいすいと泳ぐように部屋を通り抜けていった。
 ミキの手に、護身用の短剣が閃く。

 「みきたん!」

 我に返ったアヤは、慌ててミキの後を追った。

 仮装者は、既に黒の部屋にまで至っていた。
 黒檀の時計の前で、突然後ろを振り返り、もう数メートルまで迫っていたミキと対峙する。
 
 ミキの手にした短剣が、鋭く閃いた。
 そして、次の瞬間。
 短剣は、音を立てることなく絨緞の上に零れ落ちていた。
 そして、その後を追うようにミキの躰も絨緞の上に崩れた。

 「みきたん!!!」

 アヤの、もうほとんど悲鳴と言っても過言ではない叫び声が、部屋いっぱいに響いた。
 アヤ以外の面々が、黒の部屋に殺到する。
 
 アヤの手が仮面に伸び、それを剥ぎ取る。

 そのときだった。城内に、赤き死が紛れ込んだのは。
 客のひとりがばたりと倒れ、そのまま息絶える。

 「そ、んな…」

 アヤは、呆然となった。
 剥ぎ取られた仮面の奥に広がっていたのは、空洞だった。本来ならそこにあるべき顔が、ない。
 そして、この瞬間である。城内に「赤き死」が入り込んでいるのが確認されたのは。
 会場は、一瞬にして血塗られたものになった。
 1人、また1人とこの疫病に倒れる。

 「みき、たん…」
 
 アヤもまた、「赤き死」に魅入られた。
 アヤが倒れると、黒檀の時計も、その生命を終えた。

 あとに残ったのは、不気味なほどの静寂と、赤き死だけだった…。