スズランが咲いていたから、これは夢だな、と思った。
他人の家の庭先に咲いているスズランは、北の大地ではそれほど珍しいものでもない。
私は、自分の出身高校の制服を着て、佇んでいた。
暗く陰った表情で、毒素を持つというそのユリ科の白い可憐な花をぼーっと見下ろしていた。雨が降りそうな気配が、辺りに満ち満ちている。
私が手持ち無沙汰に靴の爪先でアスファルトをぐりぐりやっていると、とうとう降り出した。大粒で、少しばかり冷たい雨。
嗚呼、あの日だ、と夢を見ている今の私は嘆く。これから起こることを、"今の私"は知っている。"夢の私"は知らない。少しだけ、動揺していた。
そんな"今の私"の動揺など露知らず、"夢の私"は忠犬のように健気に一途に、待ち人はまだかと首を長くしているのだ。
目も当てられない、と知っている私は思う。まるで身内の恥部を見せつけられているような感覚。
昔の自分などは、カタチの似た他人に思える。身近だけれど遠い、昔の自分。
その時に何を考え、思っていたかは何となく憶えている。だけど、あの頃持っていた強烈な感情を、今の自分は感じることができない。
欠けているのはそれだけだが、それをまた自分の中に再現できないことが、決定的な隔たりを作っている。
だから私にとって、過ぎ去ってしまった時の中の私は、他人にしか思えなかった。
"夢の私"につられたのか、"今の私"も暫く茫としていた。
まだケータイを持っていなかった頃の私が、ブレザーの袖を少しだけ、ひょいと捲る。腕時計を確認する。もうすぐ、19:30を回る時間。
"夢の私"は、打ち拉がれたような表情になった。まだ暫く、諦め切れないような様子でその場に留まっていたが、やがてとぼとぼと歩き出した。
そうやって、裏切られたような気持ちを引き摺ったまま、私は翌日その街を去って行ったのだった。
目を覚ましてみると、頬が濡れていた。
本当に雨が降っていたのかと一瞬疑ったが、違った。
ただ単に私が泣いていた、というだけだった。
――待ち人 遂に現れず。
未だに、逢えていない。
あの後、すぐに本州に引越した私は、再び待ち人――つまり、吉敷 綺(よしき
あや)に逢える気がしなかったし、逢おうという気概も、とっくに――否、最初からかもしれないが――なかった。
吉敷 綺と私の仲は、良かったと思う。
少なくとも、極端に友達が少なかった私には、綺が一番の友達だった。否、それ以上の存在だったことを認める。
私が半ば無理矢理誘って、2人で遊んだことも多々ある。
綺は、なるべく時間を作って逢いに来てくれたし、私も逢いに彼女の家へ出向くこともあった。
別々の高校に進学したのだから、疎遠になってしまう可能性もあった。だけど私は、無理矢理に繋がった。他の友人を利用してでも、綺の傍にいたかったのだ。
当時も思ってはいたが、綺に対しての私は非常に積極的で、時に少々強引なやり方を執っていたこともあった。
そんな"らしくない自分"をさらけ出すほど、私は綺のことが好きだった。無理矢理にでも繋ぎ留めておきたいと思うほど、吉敷 綺という存在に執着していた。
吉敷 綺という存在に焦がれては、その度に自分の気持ちが加速していった。
ぱんぱんに膨れ上がっていくことには自覚的ではあったが、私はそれを止める術を知らなかった。
日に日に育ち行くそれは、ちっぽけな私の中に留め置けないほどに育ち、少しずつこぼれ始め、やがて弾けた。
切っ掛けは、私の転校が決まったから、だった。
それが示すことは明確で、私は焦っていた。
彼女が様々なことに寛容であったのも、私が気持ちを外へ出すのを許すことに繋がったのかもしれない。
とにかく、いろいろな要因が重なった日に、私は言った。
確定済みの気持ちを、何とか理性でくるみ、「好き、かも」と絞り出すように言った。
帰り際、彼女の家に最寄りの駅だった。
微妙な沈黙、居づらそうに身じろぐ衣擦れの音、夜の街灯の色…。
先にその場の空気に耐えられなくなったのは、私だった。
俯いたまま、マトモに綺の顔も見ずに「じゃあね」と言って走り出した。
綺は追ってこない。…当然だ。
その日から、綺は私を避け始めた。
私の転校までは、1週間も残されていなかった。
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