鈴蘭


 「宮村さん、この後、メシでもどう?」

 終業間際、そう声をかけて来たのは、隣の部署の富海くんだった。
 爽やかで、そこそこ容姿にも恵まれている彼は、私の部署でも密かに狙っている女子が多い。

 「いいけど、誰が行くの?」

 交遊も幅広い彼は、会社帰りにわいわいと食事をするのが好きだった。
 少し前、一緒の企画に携わった私も、時々こうして誘われる。私を誘う理由を聞いたとき、同い年だし誘いやすいとかなんとか言っていた。

 「宇都木とか、峰岸さんとか、その辺」

 富海くんが挙げたのは、富海くんを通じて知り合った何人かの名前だった。
 私は少し考える素振りを見せる。

 「…美也子も連れてっていいなら行くよ」
 「OK、じゃあひとまず下で待っててよ」

 そう言い残して、富海くんは去って行った。
 私は、隣にいた熊野 美也子に向き直る。

 「と、いう感じだけど?」
 「ありがとう、宮村先輩!」

 相好を崩す美也子は、私の3年後輩だった。彼女も、富海くんを狙ってる1人だったので、先輩後輩のよしみで便宜をはかってやる。
 たまに美也子で、たまに他の誰か。恋のキューピッド役はやぶさかではないが、誰かひとりに肩入れする気もない。
 今日は、美也子の番。次は、同期の子。
 私の中で勝手に順番を決めて、その順番に則って誘う。
 部署内では、割と浸透した暗黙の了解だった。

 「でも先輩?」

 終業ベルが鳴り終えたタイミングで、美也子が声をかけてくる。
 帰り支度の手を止めず、「ん、」とだけ言って先を促した。

 「先輩はいいんですか、富海さん。結構お得物件だと思いますけど…」

 彼女の言い様に少し噴き出してしまった。お得物件。

 「そうだなぁ…。いい人だとは思うけどね…」
 「いい人、ですか」

 美也子は、帰り支度の整った躰で私の隣に立つ。
 私たちは連れ立って、エレベーターに乗った。

 「友達って感じかな。一緒にいて、自分の気持ちも盛り上がらないし…」
 「なにげにその発言、富海さんが可哀想かも…」

 くはは、と言って美也子は笑った。
 私もそんな気がして、小さく苦笑を洩らす。

 私たちの乗ったエレベーターがエントランスに到着してから、すぐに隣のエレベーターも降りてきた。
 帰路に就くサラリーマンを、大量に吐き出す。
 その中に富海くんを見つけて、美也子は手を挙げて少しひらひらとやった。

 繁華街は、夜に向けて俄かに活気づいてきていた。
 今日はゲストがいると、嬉々として話す富海くんに連れられて、私たちは馴染みのチェーン店へと入った。
 世話好きで、友達が増えることが今でも嬉しい彼は、新しい出会いに胸を躍らせているらしい。

 「峰岸さんの会社に、地方支社から出向してきた社員がいるらしいんだけど、宮村さん昔住んでたって言うからさ」

 富海くんが告げたその支社は、確かに昔私が住んでた地域にあった。
 不意に当時を懐かしく思い、同時に綺を思い出してほろ苦さを感じる。まだそんな感覚になれることに、驚きだった。

 「お、いたいた」

 富海くんの声で、我に返る。 見知った顔が1つだけ、そこにあった。

 「あれ?宇都木だけ?」

 きょとんとした声を出して、富海くんは座敷に上がる。
 美也子を促して富海くんの隣に座らせ、自分は宇都木さんの隣に陣取った。

 「もう少ししたら来るよ」

 富海くんと美也子にメニューを渡しながら、宇都木さんは言った。
 それから、私は宇都木さんに話しかける。

 「先日は、ありがとうございました」

 そう言って、鞄に忍ばせた折りたたみ傘とお菓子を、宇都木さんに差し出す。

 「お、そっか、そう言えば貸してたっけか。気にしなくて良かったのに。ま、でもサンキュな」

 そう言って、宇都木さんは豪快に笑った。
 美也子が、興味津々といった目でこっちを見ている。

 「何ですか、何してるんですか、先輩」

 曖昧な笑みでお茶を濁すと、美也子はぶぅと頬を膨らませた。
 宥めようと口を開いたところに、宇都木さんの声が重なる。

 「峰岸、こっちだ」

 かなり混み始めた店内を苦労して移動する、小柄な峰岸さんを見つけた。
 こちらに気づいた峰岸さんは、ぱっと安堵の表情を見せて、こっちにやって来た。

 それから、峰岸さんに続いて、もう1人。

 「あっ」
 
 その姿を認めた瞬間、私は無意識のうちに小さな声を零していた。
 全身をひやっとした感触が通り抜け、末端から血の気が失われていくのがわかる。躰が強張る。上手く呼吸ができない。
 この症状は知っている。極度の緊張だ。一瞬にして、私は緊張状態に陥った。

 「遅くなってゴメンね」

 峰岸さんが、誰にともなく言う。そして後ろの連れを振り返った。

 席を移動しようと腰を浮かしていた私は、力を失って再び宇都木さんの隣にすとんと収まった。
 そのまま俯いて、峰岸さんの後ろに控える"彼女"を見ないように努めた。

 「…もしかして、柚起?」

 紹介されるより早く、ゲストが口を開いた。
 呼ばれた瞬間、くっと唇を噛んで、それから顔を上げる。

 「やっぱり綺か、久しぶり。…綺麗になったね」

 無理に笑って見せた。せめて、苦笑くらいには映っていてほしい。

 峰岸さんは「へえっ」と目を輝かせ、美也子は興味なさそうな顔で成り行きを見守っている。
 富海くんは自分の目論見が想像以上だったことに興奮しているのが、傍目からでもわかった。

 「何だ、吉敷と知り合いなの?」

 何も知らない隣の宇都木さんは、無遠慮に聞いてくる。無遠慮も何も、普通の会話だ。
 ただ、私の中の蟠りが、宇都木さんの発言に過剰に反応しているだけ。

 「ええ、小、中学校が一緒だったんです」

 私は宇都木さんのほうを首だけで振り返り、そう言った。
 それからすぐに、一旦通路に立った。

 「峰岸さん、こっちどうぞ」

 促してから、美也子の隣に収まった。
 宇都木さん・富海くん、峰岸さん・美也子、綺・私という組み合わせで対面に座っている。
 酒宴の席は、幕を開けた。


 まるで、喉元にナイフを突きつけられてるみたいな感覚だった。
 それでも、必死に自分を取り繕って、普段どおりに振る舞う。
 綺とは必要以上の会話を交わさないまま、1次回は幕を閉じようとしていた。
 美也子が、据わった目をしていた。

 「美也子、みやちゃん」
 「うーん…、先輩〜」

 いつもなら、介抱は私の役目だ。
 だけど…。

 美也子に抱きつかれながら、私はちらりと綺を見た。
 峰岸さんの話に微笑を浮かべながら、グラスを傾けている。
 私が美也子から目を離していると、ぐいっと襟元を引っ張られた。

 「先パ〜イってば」

 私の膝を枕にした美也子が、下から両手を伸ばして私の襟を掴んでいる。
 見かねた富海くんが、助け舟を出してくれた。

 「ほら美也ちゃん、俺が送ってくから、帰ろう」

 見ると、宇都木さんたちも席を立つ気配を見せていた。

 「富海くんは責任持って美也子ちゃんを送り届けるとして、アタシたちはどうしようか」

 美也子の相手をする富海くんを尻目に、峰岸さんが身を乗り出してくる。

 「私は、今日は帰ります」

 そう告げると、峰岸さんは無念そうな顔を見せた。
 そしてすぐに表情を翻し、次の標的に向かう。

 「吉敷さんは?」

 一瞬だけ、綺がこっちを見た気がした。

 「すみません」

 綺は短く、それだけ言う。
 2人に振られた峰岸さんは、宇都木さんにポツリと言った。

 「うっちゃん、2人だけの寂しい2次回だけど、どうする?」
 「そうさね…」

 いよいよ酔いの回った美也子を富海くんが担ぎ、まだ飲むと言う宇都木・峰岸ペアと別れ、私たちは駅へと歩き始めた。
 しっかり歩かない美也子に困り始めた富海くんは、駅前でタクシーを拾う。

 「…富海くん、大丈夫?私、代わろうか?」

 タクシーに乗り込もうとする富海くんに、提案してみる。

 「いや、大丈夫。久々に逢ったんだろ?積もる話でもしてきなよ」

 そう言って、何とか美也子を押し込んで、自分もタクシーに乗り込んでしまった。
 パタン、と目の前でドアが閉まった。

 「送り狼にならないでね…」

 ピラピラと手を降って、誰にも届かない言葉を零す。
 …。
 そして、自分の問題と向き合った。

 「…行こう、か」

 出だしから、挫け気味。
 綺が同意したのを確認すると、私は駅の構内へと足を向けた。