鈴蘭


 電車はガラガラで、向かう方向が一緒だった私たちは、肩を並べて座っていた。

 会話は、全くない。

 マトモに酔えなかった私は、ただひたすらに寝たフリをした。
 隣の綺は、疲れているのか、時折船を漕ぐ。
 私の肩に触れそうになっては戻り、また倒れかかって来ては起き、の繰り返しだった。

 「凭れていいよ」

 耳元で小さく言ってやると、すぐに肩にこてりと倒れてきた。

 「綺、降りる駅は?」
 「…」

 返事はない。
 そうこうしている間も、電車は次々と駅を通過していった。

 「綺…、私降りるよ?」

 自分の下車駅が近づいて、私はもう一度綺に声をかける。

 「柚起んち、行ってもいいかな」
 「……っは?」

 綺の申し出に、思考が止まる。
 綺の顔を覗きこむと、疲れの色がありありと見て取れた。

 ふぅ、と息を吐いてから、私は立ち上がる。

 「いいよ」

 2人して、ドアが閉まる直前に、ホームへと降り立った。
 
 帰路の道中、ポツリポツリと話をする。お互いの大学のこと、仕事のこと、生活のこと。
 私の家は駅から歩いて10分くらいのところにあって、辿り着くまで肩を並べて歩いた。
 微妙な距離感、20cmくらい。

 「あんまり片付いてないけど…」

 そう言いながら、私は我が牙城の鍵を開ける。

 「お邪魔、します」

 恐る恐るといった感じで、綺は部屋に入った。
 綺をソファに座らせ、自分はキッチンに立つ。そんな日が来るなんて、夢にも思わなかった。

 「綺、明日大丈夫?」
 「うん、休み」
 「まだ飲む?それとも、お茶淹れようか?」

 飲むって言ったって、この間久しぶりに同級生と宅飲みしたときのカルーアリキュールやカシスリキュールのボトルくらいしかない。
 冷蔵庫にある牛乳を使ってカルーアミルクを作るか、辛うじて残った最後のビールを出すか…。

 頭の中でそんな算段を立てていると、不意に背中に何かが触れた。

 「…柚起」

 背中に密着した声が、私の躰を貫く。
 口の中が渇いていく。

 「あ…や…?」

 掠れ声が零れた。
 気持ちが加速する。理性の制止がなければ、奇声を発していたかもしれない。
 努めて、冷静に、慎重に。

 私の脇から、にゅっと2本の腕がはえ、腹の前で手をつないだ。肩口に、吐息がかかる。

 「逢い、たかった…」

 背中の重みが増す。堪えきれなくなって、シンクの縁に両手をついた。

 「ごめ、柚起、ごめん、逢いたかった…」

 耳元で、熱を持った言葉が、譫言のように繰り返される。
 頭がついていかない。だけど躰の細胞は、歓喜して止まない。震える。

 止められなくて、綺の腕の中で、私はぐりんと躰の向きを変えた。
 応えるように、綺が顔を上げる。
 心臓が、壊れそう。早鐘が鳴り響いている。

 そして私は、綺の唇に、自分のそれを重ねる。

 躰中がびりびり痺れた。夢中で合わせて、吸って、追いかける。
 短い吐息が、空いた隙間から洩れるたびに、それすら勿体無くて、性急に塞いでいった。
 いつしか立っていられなくなり、床に座り込んでもまだ唇を求めた。
 わけがわからないくらい嬉しくて、そして少しだけ怖かった。
 少しだけ、私は泣いていた。

* * * * *

 怖かったんだ、と綺は言った。だから、行けなかったんだ、とも。

 「すごい、偶然」

 そう言って、綺は笑う。
 手が伸びてきて、私の頬に触れた。

 「…柚起、想像以上に綺麗になってて、ビックリした」

 その手に、包むように両手を添え、掌に唇を寄せる。

 「あそこに行く直前まで、柚起のこと、考えてたんだよ。こっちのほうに転校したって聞いてたから。どこかで逢えないかな、って」

 そしたら、逢えたね、と綺は笑う。綺麗な笑顔。昔、ずっと一緒だった笑顔。

 「…私も、綺のこと、考えてた」

 えへへと笑って見せると、くしゃりと相好が崩れる。

 「…柚起が好きだって、離れて気づいた」

 急に真剣な表情になって、綺が言う。

 「一緒にいた時間が、どんなに幸せだったか、思い知った。…今でもまだ、その幸せを取り戻せるかな。…柚起の隣に、いていいかな」
 「…綺」

 呟いた途端、涙が零れた。
 言葉が出てこないほど嬉しくて、頬にある手に自分を押し付けて頷く。

 綺に隣に居てほしい。綺じゃなきゃ、駄目なんだ…。

 「ありがと、柚起」

 そう言った綺の瞳も、潤んでいた。綺麗だった。
 その瞳に吸い寄せられるように、私は綺の胸に飛び込んだ。
 
 
鈴蘭 −幸福が戻ってくる−



 →あとがき