銀色


 1.感染 -contagion-

 生温い夜だった。
 雨の降った後の地面が熱されて、不快な湿気を立ち上らせている。
 梨華は、ふぅと無意識に息を吐いた。
 振り返れば、正装で佇む年老いた執事は、顔色ひとつ変えていない。

 「…もう、中に戻ってもいいのに」

 その執事に届くほどの声で、梨華は言った。
 しかし、聞こえているのか聞こえていないのか判然としないほど、執事の表情は変わりなく平坦だった。

 ―なんでこんなことになっちゃったんだっけ…?

 熱でぼんやりした頭で考えてみるものの、よく筋道が立たない。
 とにかく、母親と何かの拍子に喧嘩をし、屋敷を飛び出してきたのだった。
 それでも敷地内に留まり続けるのは、梨華には行き場所がなかったからだ。
 ぐずぐずと、雨で緩くなった中庭の地面を、靴先で掘り返す。
 きっと、梨華の母親がすぐ傍にいたなら、目くじら立てて注意するだろう。ついでに、青筋まで立つかもしれない。
 母親が言いそうな文句をいくつか思い浮かべ、屋敷に入りたくない気持ちがよりいっそう強くなった。
 ぬるい風が、微かに吹いている。
 辺りは静寂に包まれ、不気味さを漂わせていた。
 相変わらず、執事は入り口近くに佇み、梨華の行動を見守っている。
 その執事から目を逸らし、反対側を向くと、段々と闇が濃くなる風景しかない。
 そこへ踏み出す勇気もなく、かと言って飛び出してきた手前、そう簡単に中には入りづらい。―母親の前には立ちづらい。

 「お嬢様」

 俯いて、ひたすらに靴先で土を穿り返していると、執事の静かな声が梨華を呼んだ。
 びくり、と梨華は顔を上げる。
 見ると、執事は表情を変えていない。
 呼ばれたのは空耳か、と梨華が再び俯きかけたとき、執事は言葉を続けた。

 「お戻りください」

 簡潔に、的確に。
 無駄な言葉を省き、必要なことだけを伝えてくる。
 静かな口調に、圧力のようなものを感じながらも、梨華はそれに抗った。
 ふん、と鼻で息を吐き、胸を張る。

 「だから、あたしは戻りません。あなただけで戻ってください」

 そう突きつけても、やっぱり執事の表情は変わらなかった。
 静かなその佇まいからは想像もつかないくらい、頑固。
 そして、相対する梨華もまた、頑固に育ってしまっていた。
 執事は視線を逸らさずにずっと梨華を見ている。
 梨華もまた、眉間にぐっと力を入れて執事を見ていた。
 と。

 「お嬢様!」

 両開きの玄関扉が開くと同時に、切羽詰った声が先に転がりだしてきた。
 続いて、声の主も同じように転がり出てくる。
 もう少しで、地面に手をついてしまいそうな恰好のままフリーズしていたのは、執事の孫娘だった。
 扉脇に立つ執事の姿を見つけ、目を合わせ、孫娘はあんぐり口を開けたまま、その場で動きを止めた。

 「ひとみ、お嬢様をお連れしてくるのだぞ」

 執事は表情を動かさなかったが、孫娘に梨華を任せると、従業員用の出入り口から屋敷の中へと消えていった。
 ひとみは、はっと体勢を立て直して、梨華と向き合う。

 「お嬢様、もう夜も更けました。戻りましょう?」

 そう言って、ひとみは梨華に向かって手を差し出した。
 が、梨華はその手を軽く払い除ける。

 「ひとみちゃん」

 一文字一文字区切るように、力を入れて呼ぶ。
 ひとみの顔に、苦笑が宿った。

 「梨華ちゃん、外は暑いでしょ。だから戻ろう?それから、一緒に寝ようよ」

 ひとみがそう言うと、梨華の顔にじわじわと笑みが浮かんでくる。
 それはすぐに満面になり、おまけに「うふふ」という声までついてきた。
 それに対して、ひとみは「あはは」と弱りきった笑みを見せる。
 とにかく、梨華の気が変わらないうちに、と手をとって導く。

 「ね、」

 少し強く手を引かれて、ひとみはぎくりと躰を強張らせた。

 「何?」

 そうひとみが言うが早いか、梨華の躰がひとみの腕の中に納まってきた。
 甘くとろけた表情で、ひとみを見上げてくる。
 ひとみは、慌てて辺りを窺った。
 ねっとりとした暖気のほかには、誰もいないように見える。
 それから、慌てて梨華に意識を戻す。
 あんまり“おあずけ”しようものなら、またへそを曲げてしまう。
 それだけは、断じてさせてはならない。
 ごくり、と生唾を飲み込んで、ひとみは梨華が求めていることを精確に再現させた。
 ゆっくりと、血色の良い口唇に、自分のそれを重ねる。

 「えへへ」

 離れた梨華の頬は、ほんの少し桜色に染まっていた。
 ひとみも、つられたように笑顔になる。
 頬に頬を摺り寄せて甘えてくる梨華に、ともすれば流されそうになる。
 そんな自分を引っ張り剥がして、ひとみは言った。

 「ほら、梨華ちゃん、続きは…、ね」

 そう言ってやると、少し膨れっ面はしたものの、梨華は素直にひとみに従った。
 ふたりそろって玄関の扉をくぐろうとした、その刹那。

 「―可愛らしい恋人たちだこと―」

 不意に、聞き覚えのない声が、風に乗ってやってきた。
 梨華とひとみは、ぎくりとして動きを止める。
 艶やかな女の声だった。だがそれは、ねっとりと絡みつくような不快感と不気味さを孕んでいる。
 ひとみは梨華の腕を強く引き寄せた。

 「早く、入ろう!」

 だが、梨華の視線は、声の主を探すように彷徨っていた。

 「…誰?」
 「梨華ちゃん!」

 誰何の声に、ひとみの叫び声にも似た怒声が重なる。
 茫然としていた梨華は、はっと我に返った。そして、眉間にぎゅっと力を入れる。

 「無断でうちの庭に入ってきてるのは、誰?」

 梨華は、怒っていた。
 自分たちの領地を無断で侵した誰かに対して、腹を立てていた。
 一方のひとみは、危険のにおいを敏感に感じ取って、一刻も早く梨華を屋敷の中へ連れ戻したがっていた。

 「威勢のいい、お嬢さんね」

 声の主は、唐突にふたりの前に姿を現した。
 一陣の風が吹いたかと思うと、中庭の道の真ん中に、黒ずくめの女が現れていた。
 黒い大判のストールのようなものを躰に巻きつけた出で立だが、しかし夜の闇に在ってその存在を主張している。
 それはたぶん、女の肌が人よりも白く、まるで青白い光を帯びているかのように見えるからだろう。

 「こんばんは、お嬢さん方」

 白皙の肌に、口唇だけがやけに紅く、目に焼きついて離れない。
 その紅が蠢いて、言葉を紡ぐ。
 血の気を失って蒼白な顔をしているひとみに気づかず、梨華は自ら女のほうへ一歩踏み出した。

 「誰に断って入ってきたの?」

 お嬢様は、少しだけ世間知らずで、知らないからこそ無謀な勇気で立ち向かって行ける。
 相対する女は、ふんと鼻で嗤った。
 値踏みするような双眸で梨華を見詰め、小ばかにしたように口唇を歪める。
 いつもは鈍感な梨華だったが、女の表情の変化の意味に、今回はしっかり気づいたようだった。
 かちん、となった顔をして、腕を捲くる。

 「ちょっと、あんた」
 「あ、梨華ちゃん!」

 普段にない敏感さを発揮させた梨華の行動に、ひとみの反応は一瞬遅れた。
 その一瞬のうちに、梨華はひとみの元を離れ、女に詰め寄る。
 梨華の腕を捕まえようとしたひとみの手は空を掴み、するりと抜け出た梨華はそのまま女の前に立つ。
 女は、梨華より少しだけ背が高かった。
 噛み付くように睨み上げると、女はぐいと顔を遠ざける。

 「お前たちみたいなのを見てると、ムカつくんだよね」

 ぞくりとするような、冷たい声だった。
 だが、そこは石川梨華という人物である。怖気づくこともなく、女を見返していた。
 女は、一瞬意外そうな表情を浮かべるが、すぐにそれを消し去った。

 「世間知らずで、勇敢なお嬢さん」

 女の紅い紅い舌が、じゅるりと音を立てる。口唇の間から、兇悪な曲線を覗かせる牙が見えた。
 それを見たひとみは、無意識のうちに地面を蹴っていた。
 躰が弾け飛びそうになる感覚を抑えつけながら、あらん限りの力で走る。叫ぶ。

 「ぅわあぁぁぁ」

 女は一瞬だけ気を削がれ、走ってくるひとみを見た。
 憎々しげに舌打ちをし、それから思い直したように梨華を捨てるように押しやった。
 捨てやられた梨華は、よろけて地面に手をつく。
 何が起きたのか理解できなくて、そのまま土で汚れた両手を茫然と見ていた。
 梨華の目には、ひとみの行動も、それを迎える女の行動も見えていない。ただ、初めて自分の手が土に汚れたことに、ショックを受けていた。
 そして、ひとみと女の間の出来事は、その間に決着がついていた。

 「ぐっ…、ゎっ…」

 苦しそうな呻き声と一緒に、梨華の傍らにひとみの躰がどさりと落ちてくる。
 梨華が見上げると、女は口元から一筋の紅を滴らせていた。

 「こ、の、ガキがぁ!」

 女が、咆哮にも似た声を上げる。
 よく見ると、女の心臓の辺りに、銀色が生えている。
 それは、梨華がいつも食卓で目にするものだった。…銀製のフォークだ。
 女は、やがてざらっと輪郭を崩した。灰色の砂になった女を、生温い風がさらっていく。
 さらさら、さらさらと飛び散るそれは、月の光を受けてきらきらと輝いた。

 「梨華ちゃん、平気?」

 自分のほうが平気であるようには見えないひとみが、傍らの梨華に声を掛ける。
 状況が飲み込めていない所為か、釈然としない表情のまま、梨華は頷いた。

 「何なの? あれ」
 「梨華ちゃんは、しらなくていいんだよ」

 そういって、ひとみは梨華を助けて、自分も立ち上がった。
 ふと梨華が視線をずらすと、ひとみの首筋に2つ穴を見つける。

 「ひとみちゃん、血が出てる…」
 「大丈夫!」

 触れようとして伸ばした手は、躰を捻ったひとみには届かなかった。
 ふにゃっと弱々しい笑みを見せたひとみは、梨華の手をとった。
 今度は梨華もそれに抗うことなく、従った。

 ぱたん…。

 玄関の扉が静かに閉まると、風が俄かに騒がしくなった。
 ―悪夢はこれからだよ、と言っているようだった。
 ただ、紅い月だけが、不気味に地上を見下ろしていた。