2.潜伏-latency-

T.
 
 「何だったの、アレ」

 部屋に戻るとすぐに退散しようとしていたひとみを捕まえて、怒ったように梨華は訊いた。
 逃げられるとは思っていなかったひとみは、それでもやっぱりげんなりとした表情を見せて、盛大に溜息をついてみせる。
 だがそれも、梨華には通用しない。そんなことは百も承知だった。
 仕方なく、慎重に辺りを窺って、梨華の部屋にその主を押し込めて、また溜息を洩らす。
 寝静まってしまったのか、屋敷内には活動の気配がなかった。それでもひとみは、注意深く周りに気を配った。
 やがて、そんなひとみの態度に痺れを切らして、梨華が枕を投げた。ふわふわの羽毛が、ひとみに当たった拍子に外にこぼれた。ひらひらと、宙を舞う。
 
 「うーん…」

 この期に及んで、話しあぐねているような唸り声を上げるひとみに、梨華はまた手近にあったクッションを振りかぶる。
 慌てたひとみが、「分かった!」と叫ばなければ、哀れなクッションは宙を待っていただろう。

 梨華は、ひとみを見据えながらベッドに腰を落ち着けた。
 ひとみは、窓際に備えてあった文机から椅子を引き寄せ、梨華の傍にそれを置いた。背凭れを抱きかかえるように座って、語り出しを考えるように視線を彷徨わせ、無意識にふぅと吐息を吐き出している。
 夜の空気はまだ暖かかったが、ひとみは上着の襟元を掻き寄せた。

 「アレが何かって…、たぶん梨華ちゃんだって聞いたことくらいはあると思うけど…」

 それを聞いて、梨華は眉を顰めた。
 この地方に伝わる、いわば伝説のようなもの…。それに出てくるヴァンパイアの特徴を、先刻の女は持っていた。
 訝しげにその名前を口に乗せ、それからその意見を自ら否定するように頭を振る。

 「…そんなの、御伽噺の中の話じゃない。いるわけないでしょう?
 アレは、何?伝染病とか?」
 「さすが梨華ちゃん…、鋭いね」

 ひとみは、微苦笑を浮かべて梨華を称讃した。
 それから、決心して、重い口を割る。

 「…アレは、咬まれることによって伝染するウィルスが引き起こしてる、病気なんだ」

 自らを嘲るように苦笑し、ちらりと梨華の表情を窺う。

 ウィルスの検出は出来てはいるが、その正体は未だに不明だという。
 どこから来て、どのように最初の感染者を出したのか、それは明らかになっていないと言われている。
 それには、作為的なものを感じた。

 自分ひとりで思考を巡らせていることに気づき、ひとみは再び口を開く。
 
 「潜伏から発症まで個人差はあるけど、だいたい咬まれてから2週間くらいで最初の兆候が現れる。
 まずは、目と肌。後天性のアルビノになったみたいになる。
 …アルビノ、分かる?」
 「あの、色素欠乏症ってやつ?」
 「そう。
 どういう作用か分からないけど、ウィルスはまず進入した個体の色素を奪う。だから目は血管が透けて赤く見えるし、肌も髪も白っぽくなる。光が眩しく感じるようになる。紫外線の耐性が極端に落ちるから、昼間外出できなくなる。
 まぁ、それにも個人差があって、そういう症状が全然出てこないのもいるけど…」

 それだけじゃ、済まないからなぁ、と諦めたような表情で付け足した。
 ガシガシと頭を大雑把に掻き、あーとかうーとか呻き声を上げる。
 その様子を、梨華は黙って見守っていた。 

 「まぁ、それを便宜上アルビノ化って言ってるけど、それが第1段階」

 気を取り直して、ひとみが先を続ける。

 「第2段階は、犬歯の発達と、身体能力の向上、人知を超えた力の獲得」
 「人知を超えた力?」
 「そう、まぁ、それは個体個体で違うんだけど、例えば躰を消せたり、とか、コウモリを操ったり、とかかな?」
 「そんなことが、たかがウィルスに感染しただけで…?」

 梨華は訝しげに眉を顰めた。
 それに対して、ひとみはうぅん、という歯切れの悪い応えを返すしか出来ない。
 たぶん、ひとみの感じた作為的なものの一端を、梨華も感じているかもしれない。

 「正直、アタシにもどういう原理なのかは全っ然分からないけどね」

 戯けた口調で笑ってみせる。
 それから、「先を続けるよ」と優しく笑った。

 「大概は、その辺で病状の進行は止まるんだけど…。
 何割かは、その先の段階にまで、進んでしまう。
 ザ・インセイン…」

 最後は、うわ言のようだった。
 狂った人々の名が示すとおり、第3段階に進行した病気は、病体のみならず周囲の人々に危害を加える。
 新たな感染源、それが第3段階、つまりザ・インセインだった。

 梨華が、生唾を飲み込む。
 静かな部屋に、その音は大きく聞こえた。
 
 「凶暴化、破壊衝動の顕在…。
 ヴァンパイアと呼ばれるモノになってしまう…」

 「待って!」

 唐突に、梨華の叫び声が空間を満たした。
 その瞳には、怯えの色が見える。真っ直ぐに、ひとみの肩口を見ていた。

 「ひとみちゃん、だって、ひとみちゃん…」

 ひとみにも、梨華の言いたいことは分かった。
 そう、先刻、ひとみも咬まれた。

 「…アタシは、大丈夫だよ」

 ひとみは、無理矢理に笑って見せた。
 正直、本人にも何が大丈夫なのかさっぱり分からなかったが、目の前の梨華はまるで自分のことのように取り乱していた。
 むしろ、自分のことではなくひとみのことだから、これほど取り乱しているのかな、と考えてみる。自意識過剰気味?と思いながらも嬉しくなる面もあった。
 梨華ちゃんがいるから、アタシはアタシを持っていられるんだ、と誇らしく思う。

 「…もうひとつ、梨華ちゃんに伝えたいことがあるんだ」
 「…」

 梨華は応えなかった。
 数秒の沈黙が落ちる。部屋の空気が、少し重くなったように感じた。
 探るように梨華を見詰めてから、ひとみは続けた。

 「アタシの両親は、そのザ・インセインを狩る、ヴァンパイアハンターだった」

 ひゅっ、と梨華が息を呑むのが分かった。
 暗い表情で、ひとみはそれを耐えるしかない。背凭れを掴んだ手に、知らず知らずのうちに力が入っていた。

 「父さんも母さんも、ヴァンパイアに殺された。
 アタシも知ったの、何年か前だけどね…」

 ある日、告げられた父と母の事故死。車に突っ込まれたのだ、と祖父はひとみに説明した。
 以来、それを信じてひとみは生きてきた。
 だが、数年前、ヴァンパイアの気配を生まれて初めてその身で感じた夜だった。
 祖父はひとみに、両親の本当の死因を話した。
 同胞を多く殺されたヴァンパイアは、両親を咬まなかったのだという。
 それ以上は、祖父も思い出したくなかったのだろう。普段のポーカーフェイスを崩し、沈痛な面持ちをしていたことを、ひとみは今でも覚えている。

 掻い摘んで一気に話し終えたひとみは、ふつっと黙り込む。

 「…感染者の人たちは、病状が進行するのを恐れてる。力を使うことが、ザ・インセインに近づくって信じてるんだ。
 だから、まだ感染してない人たちに、頼むしかなかったって、言ってた。
 父さんも母さんも、危険を承知で、引き受けた…」

 両親の死の真相を知ってから、ひとみはひとみなりにその感染症について調べた。
 第3段階まで振興していない人とも、接触することが出来た。
 一部の進行を恐れる人々が集まって巨大な地下施設を作り、自らを軟禁状態のような環境に置いている。互いを監視しながら、狂ってしまったときに備えているという噂もある。
 しかし、それも万能ではなかった。
 だからひとみは数年前にザ・インセインに接触したし、今回も出遭ってしまった。

 「…とにかく、そういう人がいるってことを伝えておきたかったんだ、梨華ちゃんに…」

 「ひとみちゃん、どうする気…?」

 梨華の瞳が、不安の色を灯して揺れる。
 それは、ひとみの心をちくりと刺した。
 その痛みを無視するように、ひとみはぐっと眉間に力を入れる。決心を口の端に乗せる。

 「…近いうちに、出て行く」

 少しだけ、嘘をついて。

 「…夜は気をつけて、梨華ちゃん」

 そう言いながら、ひとみは立ち上がる。
 梨華は、それを茫然と見上げる。

 ゆっくりした動作で、ひとみは部屋を辞した。
 それでも、梨華にはひとみを止めることは出来なかった。
 混乱に支配され、自分でもどういう行動をとればいいか、分かっていなかったのである。

 「ひとみちゃん…」

 途方にくれたように、今はもうそこにいない名を呼ぶしか出来なかった。