U.

 
 ひとみは、梨華に少しだけ嘘をついた。

 『近いうちに、出て行く』

 それは、厳密には嘘ではないのかもしれない。
 だけど、嘘をついたのと同罪にはなるかもしれない。
 
 梨華の部屋を出てすぐ、ひとみは荷造りを始めた。
 必要のないものは置き去りにして荷造りを終えたのは、1時間ばかり経った頃だった。
 元々持ち物は少なかった。バックパックひとつ分の、本当にささやかな家出支度だった。
 仕事用のかっちりした服は脱ぎ捨て、なるべく動きやすい恰好になる。

 そろそろ、夜も明ける頃だった。
 早起きのメイドが起き出す前に、屋敷を出てしまいたい。
  
 ひとみは、祖父にだけ書置きを残した。
 用件だけを簡潔に書いて、祖父の執務室に滑り込む。
 その部屋に入ることはそう頻繁にはなかったが、部屋の奥に備え付けられた大きな書棚を見るたび、圧倒されていたことを懐かしく思う。
 自分の血筋が絶えることを、祖父は人知れず嘆くだろう。それがひとみには、とても哀しく思えた。

 「ごめんね、じいちゃん」

 昔のように呼んで、執務机の上にメモを置いた。
 少しだけ感傷に浸ってから、部屋を出る。

 まだ起き出していない屋敷は、静寂の塊だった。
 少し重いアーミーブーツの底が床に触れるたび、微かな音を立てる。その音でさえ、誰かを起こしてしまいそうな気がした。
 ひとみの心配をよそに、誰とも出遭うことなく、屋敷の入り口まで辿り着く。

 扉を開けると、外はもう薄明るくなっていた。視界が、朝靄にけぶっていた。
 水分を含んだ空気が、踏み出すたびに躰にぶつかって動く。
 歩調は自然に重いものになった。
 門に辿り着いた頃、後ろ髪を引かれるような思いで屋敷を振り返る。
 肉親も、雇い主も、そして恋人でさえ置き去りにする場所だった。
 その表情は、心倣しか険しく歪んでいる。
 眉間に力を入れていることに気づいたひとみは、感傷気味な苦笑をひとつ、再び屋敷に背を向けて歩き出した。
 門の先に伸びる坂道を下れば、街に出る。そこから列車に乗って終着駅まで行けば、かつてひとみが接触した感染者たちが住む地下施設があった。

 ――とりあえず、そこに行くしか思いつかない…。

 ひとみは、まだ自分の置かれた状況に対して、理解も対応も巧く出来ていなかった。激変してしまった運命に茫然とし、途方にくれている。
 漠然とさえ見えない未来のヴィジョンを、何とかして作り上げたかった。そのためには、同胞(なかま)に逢いに行くという方法以外、思いつかなかった。

 とぼとぼと、視線を足元に落としながら歩く。
 時折、落ちた葉を重い靴が踏みつけ、微かな音を立てた。
 夜が明けて早い所為か、人影は全くない。それに幾許か安堵しながら、ひとみは進んだ。

 もう少しすると街の入り口というところで、ふとひとみは足を止めた。
 地面に落とした視界に、自分以外の足が現れた。

 「ん?」

 その足の爪先は、ひとみに向けられていた。
 嫌な予感を覚えつつ、ゆっくりと視線を上げる。
 腰に当てられた両手、ぎゅっと真一文字に結ばれた口、そして…。
 目が合った瞬間、ひやっとした感覚が、ひとみの全身を駆け巡った。

 「り…梨華ちゃん…」

 頬を引き攣らせながら絞り出した声は、咽喉に引っかかって掠れた。
 完全に据わった双眸は、氷のように冷たい色を宿して静かに燃えながらひとみを睨みつけている。

 「…お早い、お着きですこと」

 梨華は、ぼそりと言った。
 発せられた声は、まるで地の底から引き出したようだった。
 怒っている。誰が見ようとも、完膚なきまでに怒っている。

 「あ、あはは、は…」

 ひとみは、へらっと笑って見せた。しかし、その笑みは、恐怖に引き攣っている。
 仁王立ちした梨華の表情は、緩むことはなかった。

 最近、怒らせてばっかだな、と思いながら、ひとみは抵抗せずに梨華に近づいた。
 自分より背の高いひとみを上目遣いに睨みつけ、普段より数段低いトーンで梨華は訊く。

 「どこ、行く気だったの」

 ひとみはまた、いや、あははと笑った。

 空はもう、いまや夜の片鱗さえ見当たらなくなっていた。
 屋敷では今頃、早起きメイドたちが齷齪と働きだしているだろう。
 いつも朝食ぎりぎりに起きてくる梨華がいないと知れ渡るのは、まだ少し先のことだろうが…。

 ふっとひとみは、表情を変えた。先刻までの気の抜けたものではなく、触れれば切れてしまいそうな、鋭利な表情がそこに表れる。
 じっと梨華を見詰め、落ち着いた声で言う。

 「梨華ちゃん、家戻りな」

 静かなひとみに、しかし梨華は気圧された。怯んだように瞳が揺れる。
 が、次の瞬間には、気丈にも力を入れ直してひとみを睨め付ける。
 軽く、深呼吸。

 「帰らない」

 梨華はきっぱりと言い返し、これはいつものひとみちゃんとは違う、と体勢を整えなおした。一筋縄では行かなさそうだ。
 ひとみは、ぞんざいに溜息をついた。

 「ワガママ言うなよ、今回は遊びじゃないんだから」
 「遊びじゃない!」

 険を含んだひとみの口調に呼応するように、梨華が全く叫んだような声で遮る。

 「遊びじゃないから、来たんだよ、ひとみちゃん。今ここで別れたら、もう一生逢えない…」

 そうでしょ?と訊く梨華の姿は、まるで半身を裂かれているかのようだった。
 ひとみは、ぐっと言葉を詰まらせる。双眸に宿っていた険しい色は、鳴りを潜めた。所在なさげに、視線が地面を彷徨う。

 「その心算で出てきたんでしょ、ひとみちゃん?」

 何も返せなかった。
 梨華の言ったとおり、ひとみはその覚悟を持って屋敷を出てきている。
 何も言えず黙り込んだまま、俯いていた。

 「アタシだって…」

 少しして、窺うように視線を上げ、か細い声を出す。

 「アタシだって、離れたくなんかないんだよ!
 だけど…」

 一度迸った声は、制御不能になって撒き散らされる。

 「自分がどうなるかも分からないんだ!自分の手で梨華ちゃんを怪我させたら?殺してしまったら?そんなこともあり得るんだよ?」

 手負いの獣のような双眸で、ひとみは梨華を見据えていた。

 「アタシには、それが怖いんだ…!誰よりも大切な梨華ちゃんを、この手にかけてしまう日が来るかもしれないことが、どうしても怖い…!」

 吐き出すようなひとみの声に、梨華は表情を歪めた。
 それから、小さく息を吐き出し、口を開く。

 「あたし、自分のことぐらい守るよ、ひとみちゃん」

 ひとみから目を逸らさずに、静かに宣言する。
 そして、「そりゃ、頼りないかもしれないけどさ」と少しだけ口を尖らせた。

 「ひとみちゃんがもし、その、どうにかなっちゃって、あたしを襲っちゃうことがあったとしたら、あたしは全力であたしを守るから。だからひとみちゃんは、あたしのこと考えなくていいよ」

 不意に、ひとみの躰が梨華のほうに倒れ掛かってきた。
 驚いて躰を強張らせる梨華に構わず、ひとみはその肩口に顔を埋める。

 「…ありがと、梨華ちゃん」

 頼りない、消え入りそうな声だった。
 その独白のような呟きも、ちゃんと梨華の耳に届く。微苦笑を浮かべて、あやすようにひとみの背中を叩いた。

 「ついでに、ひとみちゃんのことも何とかする。どうにか、してみせるから」
 「ついでかよ…」

 ひとみの声は、少しだけ笑っていた。
 それから2人は、黙り込む。
 どこかで、鳥の囀る声が聞こえた。
 もう完全に起き出した太陽が暖めた空気が、やわらかく2人を包んでいる。
 
 「梨華ちゃん」

 しばらくして、ひとみが梨華から離れる。
 しっかりと梨華の双眸を見詰め、明瞭な声で名前を呼んだ。

 「アタシと一緒に行くと、苦しいことばっかりかもしれない。来なきゃ良かったって後悔するかもしれない。
 …それでも、一緒に来てくれる?」
 「あたしは、ひとみちゃんと離れてしまうことのほうがよっぽど苦しい。きっと、一緒に行けばよかったって、後悔すると思う」

 それを聴いて、ひとみはくしゃりと相好を崩した。

 「だから貴女と、一緒に行く」

 梨華の宣言は、高々としていた。
 そのときのひとみには、それが堪らなく嬉しくて、そして誇らしかった。

 この先、何があってもこの人と一緒にいられると思った瞬間だった…。