V.
ちょうど良かった、と梨華は席に落ち着いてから、ひとみに告げた。
チケットを買ってシートに滑り込むと、それを待っていたかのように列車はゆっくりと動き出した。
ひとみが慌てて買ってきた弁当とお茶を、それぞれ膝の上に広げる。
屋敷に籠もっていることの多い梨華は、小さく「わっ」と嬉しそうな声を上げ、早速箸をつけていた。煮豆を口の中に放り込む。
満面の笑みで咀嚼し嚥下してから、「ちょうど良かった」と切り出した。
「家出しようと思ってたから」
ひとみは、少し飛び出て作られた窓の余りに肘をつき、げんなりした表情をしてみせる。
それから、話を逸らすように弁当を見た。
「梨華ちゃんフライング。食べる前にはいただきますでしょ」
言われた梨華は、頬を膨らませつつ、ひとみの言葉に従った。
「いただきます」 「いただきまーす」
綺麗に声を重ねてから、気を取り直して朝食の時間となった。
普段屋敷で食べている時間と、そんなに変わりはない。
普段と違うのは、梨華の本当に嬉しそうな表情と、それを満面の笑みで優しく見守るひとみの姿だった。
「ひとみちゃんも早く食べなさいよ」
梨華に促され、緩みきった表情を引き締めようとするが、見事に失敗に終わっている。
やっと弁当に箸を伸ばして口に含むと、思いの外それが美味くて、すぐに食べることに夢中になる。
梨華は、先刻のひとみのように、優しい表情でそれを見守っていた。
「なに」
ちらりと梨華の様子を窺い、ぶっきらぼうに訊いたひとみの頬は、ほんのりと桜色に染まっていた。
なァんでもなーい、と少し間延びした声で応える梨華に、間髪いれずきしょっと返す。
「そーゆーのがきしょいって言うんだよ梨華ちゃんは…」
「あらよっすぃ、照れちゃってカ・ワ・イ・イ」
「き、きンもー」
いくら言われても、今の梨華には何の効果もなかった。
上機嫌で、うふふ、と笑っている。
やがて、ひとみもつられて笑顔になった。
列車はいつの間にか一定の速度で走っていた。
窓の外の景色は、穏やかに流れていく。
「もうそろそろ秋だねぇ」
ふと車窓の外に目を向け、梨華が呟いた。
ひとみも梨華に倣って窓の外に目を遣る。流れ往く色に目を添わせた。
そうだね、と小さく呟いた。
それから、ふたりはしばらく黙り込んで、景色を眺めていた。
ふっと、不意に梨華が言葉を紡ぐ。
「ひとみちゃん、その地下シェルターって、どんなところなの?」
梨華の視線は、まだ窓の外にあった。ぽつりと呟いた言葉は、ともすれば聞き逃してしまいそうだった。
辛うじて聞き取ったひとみは、うーんと少し考える。
「意外と、居心地良さそうだったよ、居住区は。パトロンが強力だからね」
「パトロン?」
聞き覚えのない言葉だったのか、梨華が小首を傾げてひとみを見た。
「うん、出資者ってこと。というか、主体になるのかな? ナカザワ製薬って…」
後半は、独白のようにひとみが言った。
「ふぅん」
梨華は、理解したのかしていないのか判然としない返事をした。
「ナカザワ製薬の偉い人の、娘だか孫だかが感染者なんだって。だから、そのシェルターでウィルスの研究もしてる。将来的に、ワクチンみたいなものも出来るかもしれないってさ」
と、明るい声でひとみが付け足す。そのときのひとみは、現実を甘く見積もっている節があった。シェルターに行きさえすれば、どうにでもなる、自分も治ると思い込んでいたのである。
ふぅ、と息を吐いて、ひとみはシートに深々と躰を預けた。
「…実際、しんどいことはあるかもしれないけど、シェルターに行く価値はあるんだよ、梨華ちゃん」
「うん」
頷きながら、梨華はまた車窓に視線を滑らせた。
「巧く行くといいね…」
トンネルに入った車窓の外には、黒が広がっている。
窓ガラスに映った梨華の表情は、どこか無聊としたものだった。
終着駅には、昼頃到着の予定だった。
2人は、思うまま自由に車内の時間を過ごしていた。
ぶらぶらと他の車輌を覗きに席を立ってみたり、眠ってみたり、ひとみのバックパックに紛れ込んでいたトランプをしてみたり、車内販売の食べ物や飲み物を買ってみたり…。
大方のことをやり終えたと思った頃、やっと列車は終着駅に到着した。
「躰いってぇ」
座りっぱなしでがちがちに固まった躰を解すように、ひとみは伸びる。
後ろの梨華も、凝り固まった躰を控えめに伸ばしていた。
ひとみの話によると、目的地まではまだまだ掛かりそうだった。
駅前の停留所から、バスに乗る。
2人が停留所に立つと、するりとバスが滑り込んできた。
そのバスに、揺られること30分ほど。
目的地の停留所の先に、もうバス停は無いと言う。
2人を乗せてきたバスは、回送車となってどこかへ消えていった。
辺りは、緑に囲まれている。
ここからもう少し歩く、とひとみは梨華に告げる。
梨華は小さく頷いて、ひとみの後ろに従った。
辛うじて舗装されている田舎道を行った後、林道に入る。
起伏は少ない道だったが、しばらくすると梨華の息が上がり始める。
ひとみは頻繁に後ろを振り返り、そのたび梨華は力なく笑って見せた。
「梨華ちゃん、もうすぐ休憩できる場所あるから、そこまで頑張って」
ひとみがそう言った頃、少し先にプレハブ小屋が現れた。
俯き気味の梨華が顔を上げ、ひとみは気力を振り絞るように笑って梨華の手を引いた。
入り口の軽い引き戸をひとみが開け、先に中に入る。
続いて入った梨華は、すぐに強か顔をぶつける。赤くなった鼻をさすりながら離れてみると、ぶつかったのはひとみの背中だった。
「ひとみちゃん…?」
立ち尽くすひとみの脇から、小屋の中の様子を覗く。
小屋の中は、めちゃくちゃに荒れていた。
元の内装は、コンビニのような感じだったのだろう。小屋の真ん中辺りに3本置かれている。
しかし今それは小屋の奥側に向かって倒れ、並べてあったであろうものが床じゅうに撒き散らされていた。
梨華はその惨状に眉を顰め、ひとみの後頭部を見詰めた。
「何だ、コレ…」
ひとみの口から、茫然とした言葉が転がり落ちる。それから、店の中へと踏み出した。
梨華は、その場に立ち尽くして動けない。開けた視界に、店の奥にある傷が目に入った。まるで大きな鎌のようなものを振り回したような傷が、天井付近についている。それは、壁や床にも散らばっていた。
ひとみは、レジのカウンターの向こうにある扉の奥へと入っていった。すぐに戻ってくる。
「誰もいないみたい」
安堵したように梨華に告げると、すぐに飲料が並べてある冷蔵庫に向かった。
梨華もひとみに倣い、冷蔵庫の前に立った。
「電気は来てるみたいだ…」
扉を開けて、独り言のようにこぼす。スポーツドリンクを1本取り出して、隣に立っている梨華に渡した。
「いいの?これ…」
手の中のものに戸惑いを覚え、梨華はひとみを見遣った。
ひとみも、自分の分のスポーツドリンクを取り出し、封を開ける。
「とりあえず、仕方ないよ。シェルター着いたら、中澤さんにでもお金払えば大丈夫だし、きっと。
…それより」
ひとみの双眸は、鋭く店内を見回した。
「誰もいないから大丈夫だと思うけど、少し休んだらすぐ行こう」
梨華は、それに小さく首肯した。
奥の部屋が綺麗だから、とひとみに連れられ、梨華は事務所として使われていただろう部屋に入る。
梨華がパイプ椅子に座ったのを見届けると、すぐにひとみは引き返して行った。
残された梨華は、スポーツドリンクを開け、口をつける。
ぐるりと部屋の中を見回し、ふと壁際に寄せられた机の上に、小さなモニタが乗っているのを見付けた。
ふらりとモニタに近寄ってみると、電源が入っているのに気づく。モニタの下にあるビデオデッキにも、電源が入っていた。
梨華は、何の気もなしにビデオデッキに手を伸ばした。
デッキには、テープが入っていた。適当に巻き戻して、再生ボタンを押すと、色彩に乏しい映像が現れた。画面が4つに区切られていて、それぞれが先刻入ってきた店の様子を映している。
少しして、映像に客が現れる。男か女かも分からなかった。その客は、すっぽりとフードを被っていた。ポケットから出てきた手が、やけに白く映っている。
梨華は、訝しげに眉を顰めてその映像に見入った。
映像には、店番の男がカウンターから出てくるところが映っている。客の前に立ちはだかり、何事かを喋っている。その様子は、慌てているようにも見えた。
映像の中の男は、じりじりと女から距離を取っていく。客は、フードに手をやると、それを後ろに捨てるように脱いだ。白い髪が露になる。
(あっ)
声こそ出さなかったものの、梨華は思わず右手を口許に遣った。
それは、白い肌に白い髪の女だった。
女の首が、不意にぐりんと振り返った。映し出された双眸は、粗い映像でもはっきりと赤色だった。唇の紅と、双眸の紅が、ぐにゃりと笑った。
次の瞬間、女の手が素早く動いたかと思うと、画面内いっぱいに砂嵐が広がる。ザーッと言う耳障りなノイズが、聴覚に訴えてくる。
梨華がはっと我に返って後ろを振り返ると、いつの間にか入り口に立っていたひとみと目が合った。
血の気を失った顔で、じっと砂嵐を凝視している。
「ひとみちゃん…?」
梨華が声を掛けると、ひとみの意識がはっと梨華に向く。
不安げに揺れる梨華の瞳を見て、険しい表情を深くする。
「行こう、梨華ちゃん」
不安と焦燥の入り混じったような声で、ひとみは言った。