3.胎動-quickening-
T.
ナカザワ製薬が建てた感染者たちの避難所、通称“プレト”は、地上1階、地下3階から成る施設だった。
地上部には、感染していない研究者たちが常駐し、地下部に住む感染者たちの研究と監視を続けている。
居住区と言えど、感染者たちは地下部に軟禁されているのと同じだった。
それでも、感染者たちは大半が望んで軟禁されている。
ひとみと梨華が、道の先に現れた平べったい建物を確認する。
ひとみは、険しい表情でそのコンクリートの箱を見据えていた。
近づくと、愛想もへったくれもない打ちっぱなしの壁が、冷たく佇んでいる。歓迎も、拒否もしない。
不気味な静けさが、辺りに漂っていた。
ひとみは、用心深く周囲に視線を巡らせる。
正面のガラスの自動ドアから、エントランスの様子が窺えた。天井から吊り下げられた『受付』のプレートの下辺りに飛び散る紅は…血痕?
その紅を認識した瞬間、さあっと全身から血の気が引いていくのが、ひとみ自身にもわかった。
「梨華、ちゃん…」
隣に佇む梨華の手を捜して、ひとみの手が宙を掻く。
それに気づいた梨華が、ひとみに負けず劣らず青い顔をして、その手を握った。
「どうしよう…」
独白のように、ひとみが零す。迷っていた。
ここで、“何か”があったことは、明確だった。生命に対する危険が過ぎ去ったのかは、ここからでは確認できない。
はっきり言って、この場所に留まり続けるのも良い方法とは言えない。
中に入るか、来た道を戻るか。
じりじり、じりじり、と、ひとみは焦れる。
危険なのは、梨華のほうだ。緊張した面持ちを、梨華に向ける。
この施設は、確実に襲撃を受けている。それも、道中の小屋を襲ったインセインが犯人と見て間違いないだろう。
ならば、危険なのは既に感染したひとみよりも、感染していない梨華のほうだ。
ぐるぐると考え続けて、ひとみのこめかみを汗が伝う。
どうすれば梨華を安全にこの状況から解放できるか。
ぐるぐる、ぐるぐる…。
「ひとみちゃん、入ろう?」
ひとみが考えの輪に捕らわれていると、不意に梨華が言った。
つないだ手にぎゅっと力を入れ、前を見据えている。
ひとみの口から、「ぅえっ?」という奇妙な声が零れた。そして、目に見えて狼狽え始める。
危険なのは、梨華。対象が自分ならば、これほど狼狽えはしなかった。
そして、怯える。
「でも、梨華ちゃん…」
「ここまで来たんだし、何があったのか、確認もしなきゃ」
そう言って、梨華は顔を上げた。揺ぎ無い双眸が、ひとみを見詰めている。
静かな双眸に見詰められて、ひとみは次第に落ち着きを取り戻していく。
「守ってくれるんでしょ、ひとみちゃん」
「う、うん…」
じゃあ、問題ない、と言わんばかりに、梨華はひとみの腕に纏わりついた。
毒気を抜かれたような表情で、ひとみは微苦笑を洩らした。梨華と視線を合わせると、力強く頷いて寄越す。
はっ、と言わんばかりに気合を入れて、ひとみは足を踏み出す。
自動ドアの電気系統は生きているようで、センサの感知範囲内に進入すると、ドアが開いた。
ドアの向こうは、しんとして物音ひとつ聞こえない。
ゆっくりと、ふたりは施設内に足を踏み入れた。
研究施設部分の造りは、なるべく無駄を排除していった結果のような様相をしていた。実際に、その通りなのだろう。この施設のメインは、研究部ではない。
奥へ進むたび、血の臭いが強く濃くなっていく。
ひとみは、額に強く掌底を押し付けて、きつく瞼を閉じた。くらくらする。
『受付』の下に広がる血痕に近づく。
血は、完全に乾いているようだった。
血痕は、右側に向かって伸びている。その先にあるのは、外部からの来客を管理する受付のカウンター。剥き出しのスペースが、カウンターだけに遮られていた。
その向こうを覗き込むと、男が2人、折り重なるように倒れている。どちらの血かわからないくらい、紅が広がっていた。
うっと唸って、ひとみは口許に手を遣る。
隣から覗き込んでいた梨華も、露骨に眉を顰めていた。
「1人は、さっきのお店にいた人…?」
ぽつりと、梨華が零す。
スプラッタものの映画で慣れている所為か、立ち直りが早い。目の前にあっても現実感が薄いのか、眉間にしわを寄せながらもその惨状を観察している。
言われてみれば、あの防犯カメラの映像に映っていた男の服装に見える。
もう1人、下敷きになっている男は白衣を着ていた。受付担当の研究員だろうか。
一見して、手遅れなのはふたりにもわかった。
どうすることも出来ず、俯いてその場を離れる。
奥へと、進んだ。
幾つかある部屋は皆、廊下側に大きな窓が設えてあって、中の様子が窺えるようになっている。人の姿はない。
静かだった。ふたり以外に、動くものはない。
建物の奥部に、2基のエレベータと非常階段に続く重たい鉄の扉が見えた。
地下の居住区に続くエレベータは、ここにしかない。
非常階段は、各部屋にひとつずつあると聞いた。
ひとみは、先に鉄の扉を開けた。
開けたすぐ向かいの壁には、同じような扉がある。下へと続く階段、そして消火器の赤い箱。それ以外には何もない。
否、人工的な白い照明に照らされる、乾いた血痕があった。
ひとみは、沈痛な面持ちで扉を閉める。
心配そうな梨華の手を引き、エレベータに向かった。
ボタン上の液晶は、B3となっている。
下向きのボタンを押して箱を呼び、梨華を背後に庇うようにして、それが到着するのを待つ。
箱は、何の問題も乗せずにやってきた。
「行こう、梨華ちゃん」
幾分か緊張を見せながら、ふたりはその箱に乗り込んだ。
ひとみの指が、B1のボタンを押した。
「地下1階は、2階と併せて居住用のフロアだったんだけど、アタシが来たときは1階の半分くらい埋まってるだけだった…」
今は、どうなってるだろう。言外に思いを馳せる。
梨華は操作パネルの前に立ち、壁に背中を預けてひとみの話を聞いていた。
「とりあえず、中澤さんに会おう。話はそれからだ」
エレベータはするすると降りていき、静かにふたりの躰を地階に運んでいった。
するすると扉が開くと、まずひとみがその先の様子を窺う。
誰もいない。生き物の気配が、全くしなかった。
ひとみが先に外に出ると、梨華もその後ろに従う。
目の前には、やけに開けた空間が広がっていた。談話室を兼ねたエレベータホールといったところか。すらりとしたテーブルに、それと同じデザインの椅子が2脚ある。足元には、しっかりとした深紅の絨毯が敷かれている。まるで、高級ホテルのロビーのような空間だった。
ひとみが踏み出すと、絨毯が確かな存在感を足に伝えてきた。
エレベータホールの出口、つまりエレベータの入り口の真正面の両開きの扉の脇に、壁に埋め込まれるように備え付けられている受話器がある。
緊張した面持ちでその受話器を上げると、ひとみはそれを耳に押し当てた。
『…ハイ』
数コール、呼び出し音の後、反応があった。
無愛想な声が応える。
ハッと短く息を吐き、それから浅く吸って、ひとみは返した。
「中澤さんですか? 吉澤です」
暫し、間。
数十秒の沈黙の後、『ああ、吉澤ね…』と受話器の向こうで、声が洩れた。
『そこ出て、左側。管理室に居る』
不機嫌そうな声で教えると、通話はブツリと切られた。
すぐ後ろで不安そうに様子を窺っていた梨華を手招いて、連れ立ってエレベータホールを後にする。
扉の先には、すぐに3方向に分かれて廊下が伸びていた。
「ホテルみたいね…」
辺りをきょろきょろと見回しながら、梨華が呟く。
ひとみは曖昧に笑って、教えられた通りの道を選んだ。
すぐに行き止まりに突き当たり、左手側にドアが現れる。『管理室』のプレートが掲げられていた。
3回、ノック。
「入ってええよ」
くぐもった声が答えたのを確認すると、ひとみはそのドアを開けた。
「…どうもさん」
幾つものモニタの前に陣取った中澤は、不機嫌そうに見えた。
それから、睨めつけるような双眸で、ひとみと梨華をじろじろと見遣った。
「…ふぅん」
どこか、投げ遣りな声を出す。
「あんたも噛まれたんだな」
ひとみに対してぽつりと零すと、視線は直ぐに梨華へと移っていった。
少しだけ視線を上下させると、きゅっと眉間に皺を寄せる。
「あんたは、感染してへんでしょ? うちらのことは解っててここに来たん?」
語気の強さに、梨華は一瞬怯む。しかし、次の瞬間には、しっかりと中澤を見据えていた。
「少なくとも、あたしにとって危険な存在になり得るってことはわかってます」
静かな声で、そう告げた。
中澤は、値踏みするような瞳で梨華を見ていたが、やがて興味を失ったかのように視線を外す。代わりに、ひとみを見た。
「…何が、あったんですか?」
「“アイツ”に襲われた」
感情の抜け落ちたような声が、簡潔に述べる。
ひとみは、一瞬面喰ったように息を詰まらせた。
中澤は、鋭くふたりの様子を窺って、それからまた言葉を続ける。
「昼間やったし、油断しとったとはいえ、酷いザマやった」
深々と溜息を吐き出す中澤の表情は、少し困ったようなものに変化していた。が、深部にあるだろう感情は、表からは読み取れない。
掛ける言葉が見つからず、ひとみは押し黙ったままだった。中空に視線を彷徨わせた。
「でも、だって…」
思わず零れ落ちた声に含まれた疑問を拾い上げて、中澤が応える。
「2ヶ月くらい前やったかな。脱走しとる」
吉澤と中澤のやり取りについていけず、梨華は縋るような目でひとみを見た。
それに気づいたひとみが、複雑そうな表情を浮かべて梨華に説明すべく口を開く。
「この施設には、ホントはもう1階地下に部屋があるんだ。存在していないことになっているそこを、ここの人たちは『監獄』って呼んでる」
そこで、ひとみは一旦言葉を切った。
すぐに中澤が、それを引き継いで口を開く。
「つまり、悪いことをしたり、ワケありな奴らを閉じ込めて見張っておく場所や」
梨華の表情は、途端に険しいものになった。
ひとみは、そんな梨華の手を自分の手で包み込んだ。視線だけは、中澤を捕らえている。
「なんで、そんなことに…」
茫然としたひとみの質問を汲んで、中澤は溜息混じりに口を開く。
「ウィルスの弱点は、銀や。例えば、純銀製のフォークで躰のどこぞを刺されると、たちまち灰になってしまう。それがわかったとき、研究者たちは武器を作った」
そう言って、中澤は卓上に何か長いものを置いた。
それは、鑓だった。穂は銀色に輝き、柄は漆黒。石突の部分にも、穂と同じ色の金具がつけられている。
「試作品や」
中澤は、漆黒の上に手を置く。
と、次の瞬間、ブンッという棒が空気を裂く音が広がった。
唐突な中澤の行動に、ふたりは茫然としている。
「武器があった。そやし油断しとったんやろう」
中澤は、それまでのことやそれからのことを、淡々と話した。
偶然に片手を失ってしまった感染者の話。そこから仮説を立てた研究者の話、そうして出来た鑓のこと。そして、インセインを使った実験のこと…。
「ふざけんな! それじゃ人体実験じゃんか!」
聞き終えたひとみは、露骨に怒りを爆発させた。
どこにぶつけていいかわからない怒りは、壁にぶち当たって部屋中に拡散する。
梨華は不安そうにひとみを見遣り、中澤は静かにその怒りを見守った。
ひとみはただ、握り締めた拳を震わせる。
「…“アイツ”を、何とかしなきゃ」
ぐっと歯を喰いしばり、小さく零す。
「出来ると思うか?」
中澤が、暗い双眸で尋ねる。
「何とかするしか、ないでしょう」
ともすれば、迸りそうな感情のうねりを抑えつけながら、ひとみはそう言った。