U.
ちゃぷん…、と控えめな音を立てて、水面に波紋が広がった。人口の光が、その水紋に揺らされて揺らめいている。
梨華は、微かに触れた跣足の爪先で水面を撫でている。足が動くたび、水が紋を描いていった。
プールサイドで念入りに準備体操をしたひとみが、今度は跳び込み台の上に立つ。
間。
呼吸。
ひとみの躰は綺麗な放物線を描き、水中へと投げ出された。
飛沫が上がり、一際大きな水紋が広がって往く。
水底近くまで潜った躰は、やがてすいと水中を滑っていった。
梨華は、目だけでひとみを追う。いつの間にか、着ていたTシャツが湿っていて、不快感に眉を顰めていた。
やけに鮮やかなオレンジの照明と、強烈な白い照明が交互に天井に並び、水面を照らしている。ひとみの腕が、脚が、それらを容赦なく攪拌していった。
しかし、ひとみの躰が通り過ぎれば、何事もなかったかのように元通り。
向こう側の壁で鮮やかなターンを決めたひとみは、スタート位置に戻ってきた。
片道50メートル、往復で100メートル。
水から顔を上げたひとみに、梨華はおずおずと声を掛ける。
「ひとみちゃん…」
「んー?」
今度は背を水につけ、のんびりと浮いたひとみからは、のんびりとした声が返ってくる。浮いたまま、気持ち良さそうに瞼を伏せていた。
中澤の厚意で、ショッピングモールにある大抵のものは、‘ちょっと拝借’することができた。今ひとみの着ている黒を基調にしたスイムウェアも、スポーツショップから借りてきたものだ。
その、ひとみの着ているウェアの模様を視線でなぞりながら、梨華は続ける。
「銀のこと、ひとみちゃんは知ってたよね」
ぽつりと断定的に零した梨華に、ひとみはおや、と目を眇める。身を翻して、プールサイドに上がった。濡れた躰をそのままにして、梨華の隣に腰を下ろす。
「よく、見てたね」
小さく零すように言って、梨華を見る。伸びた前髪が、俯く顔に翳を落としていた。
「あの時、何でフォークなんか持ってたのか不思議だったんだけど、謎が解けた。ウチでは、一番身近な銀製品だもんね…」
まるで、自分の考えをなぞるかのように言って、梨華はひとみを見る。
ひとみも、同意を示すために頷く。
そして、暫しの沈黙。
ひとみの前髪から滴り落ちた雫が、足元を濡らしている。
「ハンターたちの間では、結構マエから知られてたことだったんだ」
ひとみは、濡れて貼りついた前髪を払い、下唇を突き出して溜息を吐いた。
過去に置いてきたはずのやり切れなさが、その表情に少しだけ表れる。
「それでも、ウチの両親はダメだったんだけどね…」
梨華は、どんな言葉をかけていいのかわからず、唇を噛んで俯く。
「危険なのは承知だったんだよ、ウチの親だって…。警戒は怠らなかったし、それなりにいろいろ備えてたんだけど…」
重苦しい吐息と一緒に、ひとみは淡々と話す。語尾が、溶けるように消えた。
「…できれば、アタシは梨華ちゃんには帰ってほしい」
言外の懇願に濡れた双眸で、ひとみは梨華を見た。
梨華は、視線を逸らさずに真っ直ぐその双眸を見る。やがて、首を横に振った。
「あたしは、帰らないよ、ひとみちゃん」
静かな声が、宣言した。
だって、言ったじゃない、一緒に行くって。誓ったじゃない、離れないって。
梨華の双眸が、無言でひとみを強く責める。
ひとみは、困ったような笑みを浮かべて、ふ、と息を吐いた。相方の頑固さを、改めて実感する。
梨華も釣られて、笑った。力強い笑み。
優しい双眸が、梨華を包んで笑う。手を伸ばして、髪に触れてくる。撫でる。
その、自分に触れる手を、梨華は胸に引き寄せた。
穏やかで、ほんのり甘くて、ちょっとだけ切なくて…。
どちらともなく、唇が惹かれ合う。
お互いに瞼を伏せて、あと数センチ…。
「おーい、よっさん、石川ー、おるかー?」
不意にプールサイドに炸裂した大音響に、驚いたふたりはすぐさま距離を元に戻す。
早鐘のように暴れる心臓を落ち着けるように深呼吸してから、ひとみが負けじと大声で叫び返した。
「何ですか、中澤さん!」
入り口に人影が現れて、頭の上でひらひらと手を振っていた。
入り口前には、天井にシャワーのノズルが幾つかつけられていて、水が出ている所為で見通しは悪い。
だが、水のカーテンに遮られてなお、中澤の髪の金色は目立っていた。
「顔合わせするさかいに、着替えて集合しい」
そう言うが速いか、中澤はまた姿を消した。
残されたふたりは、互いに顔を見合わせて微苦笑を浮かべた。
中澤がそのまま出て行ってしまうと、梨華はプールサイドの、控え室へ続く扉を開ける。その先には、見学者用のロッカールームが広がっていた。
「じゃあ、ひとみちゃん、待ってるから」
梨華が声を掛けると、シャワーに打たれながらひとみはくぐもった声で了解の意を伝えた。
少しだけくすりと笑って、梨華はロッカールームに足を踏み入れた。
と。
ゆらり、とロッカーの陰から人が現れる。
声が洩れそうになった口許を慌てて両手で塞ぎ、その人影を改めてよく見る。
中澤だった。
「…中澤さん」
中澤は、何も言わない。
探るような双眸で見詰めながら、梨華は言葉を重ねる。
「何ですか、中澤さん…」
「ここに残る、ちゅうことは、」
溜息と一緒に、言葉が吐き出される。
中澤は、梨華の双眸をしっかり見据えて、続けた。
「覚悟は出来てる、って取ってええんやね?」
語尾を殊更に上げるようにして、挑発的に。
梨華は、はっとして中澤の双眸を真っ向から見た。
そのまま、少し強張った真剣な表情で、頷いてみせる。
途端に、中澤の瞳の奥に、すっと冷たいものが走った。
「そこに、死んでもええ、っていうのは、入ってるん?」
「はい」
即答。
「…最悪、吉澤を手にかける覚悟も、あるんやね?」
梨華の眉根に、皺が寄る。
暫しの逡巡、そして。
「はい。
それは、他の誰にも任せられません」
一瞬、中澤の表情が歪んだ。が、それはすぐに消える。
先に視線を外したのは、中澤だった。ふーっと長く息を吐き出して、くるりと梨華に背中を向ける。
「…解った」
中澤は短く言うと、ロッカールームの出入り口へと足を進める。
その背中は、梨華を待たずに出入り口の向こうへ消えていった。
ひとみと鉢合わせたのか、聞き慣れた声が中澤を呼び止めていた。
梨華は、安堵の溜息を零す。いつの間にか緊張していた躰が、一気に弛緩した。
「梨華ちゃーん、行くよー」
少しだけ間延びしたような声が、梨華を呼ぶ。
梨華は、小声で「よし!」と気合を入れた。
「今行く!」
そう答えて、中澤の消えていった背中を追いかけて、ロッカールームを飛び出した。
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